新しくて古い笛 – ウーラフ・イェンソンとヘリエダーレン・フルート

この文章は、2005年にEmma GrutとSvenskt Visarkivによって出版された曲集「Ol’ Jansas låtbok」の序文の中で、ヘリエダールスピーパの復興についてダン・ルンドベリ氏が記述したものです。
Translated to Japanese by Yuko Oda

ヘリエダーレン地方(スウェーデン北部、ノルウェーに隣接する)エーヴェルベリ出身のウーラフ・イェンソン(Olof Jönsson – Ol’ Jansa -)は、自身が作った曲とそのフルート演奏が広まり使用されるようになるとは夢にも思っていなかったことでしょう。 多くの伝統的なフルート奏者と同様、ウーラフ・イェンソンはステージミュージシャンではありませんでした。彼は主に自分の楽しみの為に楽器を使いました。

彼の演奏は、1935年から1951年の間に Landsmålsarkivet(スウェーデン地方アルヒーフ)と Radiotjänst(スウェーデン放送)によって3度録音されています。 現代のスウェーデンでは、伝統音楽はだんだんと遠い過去の名残となっていますが、その中で、ウーラフ・イェンソンと彼の演奏は、あきらかに心躍らせるもの、あるいは異国風なものと見なされました。

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Basen, Jonas Jönsson’s farm in Överberg (photo: Gunnar Stenmark, 2015)

フルートは、非常に古く、とても広く普及した楽器です。 ウーラフ・イェンソンのフルートは、エーヴェルベリ、ベーセンにある彼らの農場の作業場で、単純作業に退屈していた彼の兄弟ヨナスによって作られました。 ウーラフ・イェンソンとヘリエダーレン地方の他のミュージシャン達によって演奏されたスウェディッシュ・フルートの原型は、ほぼヨーロッパ中で見つかっている6穴フルート属に属しています。 非常に興味深いことに、ヘリエダーレン地方のスペルピーパ、ブリテンのティンホイッスル、ロシアのスヴィレル、ポーランドのフヤルカ, ルーマニアのフルイェル、セルビアのフルラと他のタイプのフルートのいくつかは、全く同じような構造の楽器です。 (1)  リコーダーに似たこれらの笛はみな、まっすぐな円筒形の内径と6つの穴を持っています。 まっすぐな内径であるというのは、他のリコーダーのような笛に比べて強い低音域を持ち、1オクターヴ半の範囲内で書かれた曲を演奏するのに適しているということです。 6穴は、非常に複雑な運指やオーヴァー・ブロー奏法をせずに通常の七音音階の演奏を可能にしています。 いくつかのスウェーデンとノルウェーの伝統的なフルートの外見は、専門的に作られたリコーダーからの影響を示唆しています。つまり、18世紀にドイツのリコーダーが輸入され、多くのフルート奏者やフルート製作家達はこれら品質の良い楽器に触発されたに違いありません。

 

スウェーデンでは、フルートは地域によって異なる名前がついていますが、大抵は「笛を演奏する」という言葉、つまり「演奏する」「笛」という2つの単語の組み合わせをその地域の言い方で表したものです。例えば、ダーラナ地方のエルヴダーレンでは「スピロピーパ」、ヘリエダーレン地方のエーヴェルベリでは「スペラピーパ」といいます。 他には「ヴァルピーパ」(羊飼いの笛)や「ロートピーパ」(楽曲の笛)のように、楽器が演奏された背景から名付けられたものもあります。 また、「ロングピーパ」(長い笛)、「トレピーパ」(木の笛)、「ビョルクピーパ」(カバ材の笛)「グランピーパ」(もみの木の笛)は、外見や素材に基づいて名付けられました。

今日、「エヴェルトベリピーパ」「ヘリエダールスピーパ」「ヘルシンゲピーパ」そして「オッフェルダールスピーパ」と呼ばれる笛は、名付け方が完全に異なっていて、一般的に、所蔵されている美術館やアルヒーフにちなんだ名前です。 この種類の名前は楽器の出所を表しており、その呼び方は通常、その地域のミュージシャン達には使われていませんでした。

 

6穴フルートは当然ながら、伝統音楽の中だけで使用されているわけではありません。 他のヨーロッパ諸国のようにスウェーデンの様々な地域で、ミュージシャンは穴の数や構造の異なる色々な種類のフルートを使っていました。 8穴のエルヴダーレンのスピロピーパやレクサンド周辺の7穴フルート、指穴のない柳のフルートが、その例です。

フルートは製作や演奏が比較的容易で、またとても持ち運びし易かったので、その広まりについて説明するには確かに長い歴史を遡ります。古くから、フルートは羊飼いの楽器でした。 これはスウェーデンの事例ですが、夏の放牧の時には、フルートはホルンやトランペットと共に一般的な楽器でした。しかしホルンやトランペットとは異なり作業用の楽器ではなく、むしろ夜間や休憩の時間を過ごす為に使われました。

 

ほぼ40本近くの伝統的なフルートがストックホルムのthe Swedish Museum of Performing Arts(旧・音楽博物館 Musikmuseet)に所蔵されています。 ほとんどはダーラナ地方のもので、それは収集家がその地域に集中する傾向が少なからずあった為です。 しかしながら、ヘルシングランドの2本のフルートと、ヘリエダーレン南部リルヘルダールの1本のフルートも所蔵されています。

多くのスウェーデンのフルートの原型が伝統を受け継いで生き残ったわけではありませんが、ちょうど100年前、多くの異なるフルートが様々な地域で演奏されました。 なぜ特定のモデルが他のものより長く生き残ったのかを説明するのは容易ではありません。 多くの場合、偶然の要素がうまく役割を果たしている可能性があります。つまり一部のフルートは興味を持った収集家やフォークミュージックの熱心な愛好家、もしくは博物館の手に最終的に渡りましたが、それ以外は残らなかったということです。

 

その後1980年代に起こったことは、フォークミュージックの流行の余波で、多くのフォークミュージシャン達が新しい表現手段を模索し始めたのです。 一つの方法は、他の伝統的なジャンルの楽器を使用することでした。もう一つは、古い楽器を再発見することでした。 楽器製作家のレイフ・エリクソン、ミュージシャンのペール・グッドムンドソンとグンナル・ターンハグはダーラナの博物館で古いモデルをもとにしてスウェディッシュ・バグパイプを開発しました。 伝統を受け継いで演奏されていた最後のスウェディッシュ・バグパイプは、1940年代にダーラ・イェーナのグッドムンド・ニルス・ラーソンによって演奏されていたものです。 弓型ハープや様々なハーディ・ガーディ、古いタイプのニッケルハルパは既に1970年代に復活していました。 スウェーデンのフォークミュージシャン、マグヌス・ベックストレムは1980年にスピロピーパの為の小品集 ”Jag blåste i min pipa” (私は笛を吹いた)を出版しました。「私は”骨董品”の印が消えること、そしてスウェーデンの音楽界が多くの音楽面または教育面でのフルートの利点を発見し活用することを願っています」とあるように、この小品集はフルート演奏への願いとフルートの地位を高める試みでもありました。 (2)

ヘリエダールスピーパは ”Musik i Härjedalens skogar förr och nu”(ヘリエダーレンの森の音楽、過去と現在)のプロジェクトの一環として再生しました。 これはミュージシャンのマッツ・ベルグルンドとアレ・メッレルがリルヘルダールの楽器製作家オスカー・オロフソンと力を合わせて始めました。 マッツはダーラナ地方のよく知られたモデルとは異なる新しいスウェディッシュ・フルートを見つけたいと思っていましたし、アレは伝統的なフルート演奏の幅広い知識を持っていました。 地元のミュージシャン、グレゲル・ブレンドストレムとラッセ・セーリンはレパートリーを豊かにする為に呼ばれました。 2つの源流がレパートリーに使用されました。つまり、ヘリエダーレンのフィドルの曲と、記録用に録音されたウーラフ・イェンソンによる演奏からのフルートの曲です。 この成果は、1990年にLPから再発売されたCD ”Härjedalspipan” で聴くことができます。 (3) このプロジェクトの作業は、入念に実行されました。 細心の注意を払ったのは、フルートの音域とその演奏の可能性を評価することでした。 録音と映像が検討され、アレ・メッレルはウーラフ・イェンソンの演奏を次のように評価しました: (3) このプロジェクトの作業は、入念に実行されました。 細心の注意を払ったのは、フルートの音域とその演奏の可能性を評価することでした。 録音と映像が検討され、アレ・メッレルはウーラフ・イェンソンの演奏を次のように評価しました:

ウーラフ・イェンソンの装飾は、特に前打音とトリルに関しては十分に成熟されていました。とりわけ印象的なのは、曲の拍子に沿ってトリルのスピードを適応させる能力で、そのため単なる装飾にはならず、曲のリズミカルな面が強調されています。 大抵、トリルと前打音はともに、聴き慣れたものよりもゆっくりしています。 (4)

LP ”Härjedalspipan” は成功を収めました。少なくとも、フォークミュージックの用語の部分において。どういうことかといえば、この(ヘリエダールスピーパと呼ばれる)フルートは、熟練したミュージシャンをフューチャーした技巧的な演奏とレパートリーを伴った「パッケージ」の中で生まれ変わったのです。アレ・メッレルは、地域の連携を強化し、地域の機関がプロジェクトをより支援する為に、「ヘリエダールスピーパ」という名前が戦略的に選ばれた、と話しています。 加えて、オスカー・オロフソンはフルート製作を始めました。 フィドル製作をしていたオスカーは、ヘリエダーレンでこのフルートの製作に適したフルート製作家を見つけるという課題を持っていましたが、 これは言うほど簡単ではなく、彼は結局アレ・メッレルの採寸結果に一致したフルートを試作することにしました。 この結果は予想を上回り、オスカーは作業をするには年齢的に厳しいと結論づけて終えるまでに、200本を超えるフルートを製作しました。 オスカー・オロフソンはイェムトランドの隣のオスのグンナル・ステンマルクにフルート製作の技法を伝承し、グンナルは2005年までにおよそ350本のヘリエダーレン・フルートを製作し販売しました。 (5) それは、他の小規模のメーカーによってウーラフ・イェンソンの「スペルピーパ」をもとにして作られた別のフルートがおよそ600本を数える日までに、です。 (5)

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リルヘルダールのオスカーの自宅にて、オスカー・オロフソン(左)とグンナル・ステンマルク、2004年7月. (写真:ELISABET GRÖNLUND)

人生は、言い換えれば、「ヘリエダールスピーパ」の中に吹き込まれています。 今日、いくつかの講座が毎年行われ、願わくばそこで使用する為にこの本を見つけるでしょう。 ウーラフ・イェンソンと彼の曲は、伝統に風穴を開けました。 伝統は、彼の曲と楽器のおかげで生き残っています。 すべての復興運動には、このような疑問が現れます。 ウーラフ・イェンソンが演奏した時のように、フルートは鳴っているか? ヘリエダーレンのフルート演奏の代表はウーラフ・イェンソンだったのか? 復興に関して共通の意見は、「オーセンティシティ(真正)」に達することは不可能である、ということです。実際、 雑音の入った録音の音は聴きとりにくく、私達はオリジナルの文脈の中で音楽がどのように見なされていたのかを知ることは確実に不可能です。 新しくてより効果的な道具や、更に熟練したロールモデル、そして何より、新しいメディアや音楽習慣によって変わった私達の音楽体験によって、楽器製作は変化しました。

しかしそれは、変化するものと継続するものが互いに作用し合うという、生きている伝統の証しです。 そういう意味では、伝統を機能させていく為に新旧ともに「ヘリエダールスピーパ」だと言えるかもしれません。 楽器を蘇らせる試みは成功しました。ヘリエダーレンのエーヴェルベリのフルートはしっかりと生きています。

 

ストックホルムにて、2005年2月

ダン・ルンドベリ
ディレクター、SVENSKT VISARKIV (THE CENTRE FOR SWEDISH FOLK MUSIC AND JAZZ RESEARCH)

 

Footnotes:
(1)  実際のところ、6穴フルートはアフリカと南アメリカでも共通であり、これらの多くはリコーダーのようなものではないが、異なるタイプの縦笛である。
(2) Bäckström, Magnus 1980: Jag blåste i min pipa. Falun: Dalarnas museum.
(3) Härjedalspipan NADLP 901 (LP), DROCD 008 (CD)
(4) Spelteknisk utvärdering av spelpipa enligt inspelningar av Olof Jönsson, Överberg. Ale Möller 1989.
(5)  更新:2014年までにグンナル・ステーンマルクは約1,000本のフルートを製作した